髙木祐来のブログ

髙木祐来の日常が述べられていると思う。

一喜一憂しないことと謙虚であること、今日の期待値

人間完璧じゃなくて複雑やから、たまたま良い側面が出まくった日と、たまたま悪い側面が出まくる日が定期的にでてくる。成功しまくる日と、失敗しまくる日。恥ずかしかったとか、かっこよくあれたとか。

僕は今日、どちらかというと、恥ずかしかった日で自分の愚かさを再認識した日なのだけど(定期)、よくよく考えれば毎日のように愚かじゃないなんてありえない。ここでいう愚かは、焦って支離滅裂な説明をしちゃったり、自分の好きな話だから出しゃばって話しすぎたりとか、何か自分のポリシーに反することをしてしまった時。定期的にそういう悪い日はやってくる。定期的に愚かさを再認識する日が来る。反対に、定期的に良かった日、かっこよくあれたり、愚かじゃなかった日もある。めちゃ上手く行く日とめちゃ上手くいかない日。それでめちゃ調子乗ったりめちゃ落ち込んだり。 でも結局のところ、これってランダム性が高いが故の現象で、毎日のように愚かじゃないなんて、無理ゲーだと思った。

この世界、不確実性が高い世の中で、様々な状況に遭遇する。そのランダム性の高いシチュエーション一つ一つに、完璧に愚かじゃないように対応できるのは至難の業。全部が違うシチュエーション。それぞれ個性的なシチュエーション全てに対して、自分が愚かじゃないようにあるなんて無理だ。だから、たまたま自分が愚かじゃない、たまたまめちゃ愚かだった、その一つ一つに毎回毎回一喜一憂しているようじゃ、気が疲れてしょうがない。そして総合的な愚かさ、平均的な愚かさ、平均的な自分が見えなくなる。 たまたま自分が愚かになりやすい状況がその日だったのかもしれない。たまたま愚かになりにくいシチュエーションが多かったのかもしれない。総合的に見たら、悪かった日と良かった日の合間くらいなのではないか。

だから、めちゃ良かった日がスコア100で、めちゃ悪かった日がスコア50とすると、合間取って僕の総合的な良さスコアは75。今日の良さスコアの期待値は75くらい、と考えるようにしようかな。たまたま良かった日、悪かった日の極端な例で一喜一憂しているようじゃ、慢心したり不安になりすぎたりする。 長期的に見て、平均的な総合的なスコアを常に見て、気を落ちつせたい。難しいけどね。

2024年!僕の好きなYouTuber〜

そういえば僕の好きなYouTuberを紹介していなかったね。高校二年生くらいまではガチで好きなYouTuberいなくて、いるとしても好きな音楽家くらいだったのだけど、今は普通に好きなYouTuberがいる。 紹介します。

www.youtube.com (↑ショート動画がおすすめ) www.youtube.com www.youtube.com www.youtube.com https://www.youtube.com/@zozozowww.youtube.com

これまで挙げたものはよく見るのだが、それ以上にダントツで僕が一番見ているチャンネルがあります。それは「Fラン大学就職チャンネル」。これは僕を変えるレベルで僕に影響を及ぼしていてお世話になっています...!(敬意)

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僕の教養の三割の提供はここ。僕の視野を140%広げたのもこのチャンネル。いつもお世話になっております🙇
きついジョークと正論による現実パンチで失明間違いなし!弱い人間は気をつけてみよう... 僕も日々、「Fランを覗く時、Fランもまたこちらを覗いている」と思って生きてます。^^;

ここの作品は本当に危ない。人に紹介するのも危険で、この人の作る作品の中のどれが地雷を踏むかわからない程に多種多様。例えば「ショクえもん」は一部の学生を、「サラリーモンスター」は一部の労働者を、言葉という凶器で潰しにかかってくるだろう。 なお、それ自体もこのチャンネルが自覚している。↓


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あとね、「ルールチェンジ大富豪」とか「金融義賊」(小説)がドチャクソ面白かった。教養にもなるから、めちゃくちゃおすすめです。

沢山の貰い物を貰って生きているかも

最近よく思うのが、僕って沢山の貰い物を貰って生きているんだなという話。周りの人があってこその自分なのだと。

僕は千葉に住んでいて、都会にも行く機会があるから、どちらかというと都会人なのだろうけど、都会人だからといって僕が本質的に猿ではないということにはならない。僕は最近そう感じている。というのも、僕は沢山の貰い物をもらった上で生活が成り立っているのであって、それらがなければ今頃猿のようになっていたのだと思う。その貰い物というのは、身の回りにあるものだ。

意外と気づきにくいのだが、僕は十九歳になる頃にやっと気づいたのだ。実に遅すぎて恥ずかしいのだが。例えば、僕が今ブログを書くために使っているキーボードやモニター、コンピュータは誰が作ったのだろうか考えると、僕以外の誰かが作ったということがわかる。また、それぞれの周辺機器を作るために必要な技術は誰が作ったのだろうか、これもまた僕以外の誰かだ。そして、作る以外にも僕の手元に届くような世界を提供してくれてるのは誰だろうか、これも僕以外の誰かで配達ドライバーや小売店などなど。そのほかにも、周辺機器メーカーが存在したのは、その会社を作ることができた日本やアメリカなどの国があったおかげであり、なおかつ、それらの国が適切に政治を成しているからでもある。これも僕以外の誰かがやったもの。

そしてここまで考えて僕はふと思ったのが、もしも貰い物がなければ僕はどうなっていたのだろうか、ということだ。そしてわかったことが、僕は本質的にただの猿に近い可能性があること。
僕が毎日使っているスマホも他人が作ったものだし、僕が住んでる家も親が貸してくれてるものだし、僕が食べてるご飯も親からの貰い物だし、僕が学校で教育を受けられるのも貰い物。僕が使っているウォシュレット付きトイレも貰い物だし、僕が使ってる駅も貰い物で水道もガスも電気も貰い物。そしてここまでに挙げた貰い物を全て僕から剥奪してみると、残るものは何か。そこに残るのは恐らく、全く教養のない、トイレの使い方もわからない、歯の磨き方もわからない、体の洗い方もわからない、箸の使い方もわからない、本能と理性の違いがよくわからない、猿のようなものになっていたのではないだろうか。
つまり、本質的に僕は猿なのであって、貰い物があるからこそ人間になれる、と考えた。

そこで僕は、僕一人で何でもできると思うことをやめた。できる可能性があったとしても現実的に不可能だ。特に、本質的に僕は何でもできる人間であると考えるのをやめた。もはや猿に近い何かだ。
このように、僕は実は人間じゃないのではないかと思ったのが最近あったことで、僕は貰い物をもらいまくるこの社会で生きる上でコミュニケーションや協働が必要不可欠だと感じた。僕はもっと周りの人に感謝して生きていこうと思う。


余談だけど、似た話がアニメになっていたので共有しておこう。


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感情を100%理解することができない無力感

最近よく思うこととして、他の人の話に100%共感することができないことが悔しいというか、自分がいかに無力であるかを感じている。それは、他の人が僕自身ではなく他人であって、その人が感じている感情と同じ感情を感じることは、脳が違うからできないということ。

僕は昔から他の人の気持ちを考えて行動しようとか考えてて、なるべく傷つけないようにしてた。(かといって結果的にちゃんと傷つけなかったかと言われると、そうではなくて気づかないうちに傷つけたことも結構あるのだけど。)だから色々な人の感情を知りたかったりした。

他にも、僕はそれなりに献身的なやつだから、色々な人の感情に共感して寄り添ってあげたいと思う。昔少し病んでた時にイマジナリーフレンドが寄り添ってくれたのだが、そんな感じに僕は寄り添ってあげれる人になりたいと思っている。

でも最近はそれが100%フルに共感することはほぼ不可能であると感じていて、ショックだ。なぜなら、共感するという行為は自分の経験を基にした感情の近似を経験するためだと僕は考えているからだ。

共感

ある人の感情に共感するには、共感という名前の通り共に感じることが必要なので、同じような感情を自分の頭に用意する必要がある。だが、その同じような感情を用意するのは、Air Dropで感情を送ってくれるなどはできないため、自分の経験から抽出または醸成する必要がある。となると、ある人が感じた感情を感じるきっかけとなった、同じような境遇を自分もしている必要があり、そこから同じような感情を抽出/醸成する必要がある。でも、もし複雑な感情に共感するとなったら、これは果たして可能なのだろうか?

その複雑な感情というと、複雑な境遇(精神疾患毒親、DV、性的マイノリティなど)により表れる辛いといった感情が多いと自分は感じていている。*1 そしてこれに完璧に共感するには、前述の通り共感は相手の感情に近いものを用意する必要があるため、同じような複雑な境遇がなければ困難になるのだ。だが、その複雑な境遇全てを私たちは経験することが果たしてあるだろうか?一部の人はありえるかもしれないが、少なくとも自分はせいぜい一つだけだ。ゆえに複雑な境遇による複雑な感情に僕が共感することは精度が悪い。

この複雑な感情にも僕は寄り添ってあげたいのだが、所詮僕は他人で共感することが難しい。そう考えると僕は無力感を感じてしまうのだ。

無力

僕は最初に述べた通り、どちらかというと献身的で色々な感情に寄り添ってあげたいと思う野郎なのだが、一番共感したい、寄り添ってあげたいと思うのが「辛い」という感情なのだ。なぜなら最初に少し触れた、イマジナリーフレンドが少し病んでた時期に寄り添ってくれたという経験があるからなのだ。だから僕も、他人の辛いに共感してあげたいのだ。 でも先ほど述べた通り、複雑な境遇による複雑な辛いという感情に共感することは難しいと感じている。にも関わらず自分はその辛いに共感してあげたいのだ。これは相反する状況で認知的不協和を産む。

これが僕の無力感の原因。僕に昔イマジナリーフレンドが寄り添ってくれたのと同じように、僕は他人の「辛い」にも寄り添ってあげたい。でも、それはできない、共感ができない。この一番したい、寄り添いたいことができない、これにより僕は無力感を感じるのだ。助けてあげられない、所詮僕はヒーローではなく他人なのだと。

だから僕は感情を100%理解することができないことに無力感を感じる。話を聞くことはできるのだけど、本当はしっかり共感してあげたいんだけどなぁ。一部分しか共感できなくて、悔しいというかなんというか。

ブログ始めました

元々Ameba Blogをやっていたのだが、なんかよくわからないことになったので(?)はてなブログに移行します。まっさらな状態にもしたかったもので。 自分の普段思っていることをつらつら書いていく場所として使いたいと思います。日記的な何かです。

しずかなインターネットをブログ投稿サイトとして使おうと思ったのだけど、でもあそこはどちらかというと体裁良い記事だけ投稿しようと思って、体裁の悪い雑に書いた文章を投稿する場所としてここを使おうと思う。あくまで日記っていうていにすることで、体裁の悪い文章を正当化します。