髙木祐来のブログ

髙木祐来の日常が述べられていると思う。

僕の心理的システム二極化

最近の僕の中のシステム、二極化してる。 感情的なやつと、理論的なやつ。

大体、理論的なやつが舵を取っていて、感情的なやつの道徳や道義、ポリシーに従って、理論的なやつが僕の肉体を操作している。今書いているのも理論的なやつ。 その感情的なやつのポリシーがなければ、理論的なやつは僕の肉体を操作できない。なぜなら目的がないから。行動の目的は感情的なやつが大体提供する。だから、感情的なやつが目的を作って、その目的を理論的なやつが受け取って肉体を動かす、みたいなアーキテクチャを最近の僕は採用しているようだ。 今僕が文章を書いているのも、その感情的なやつが書きたがっているから、理論的なやつが書いてあげてるに等しい。理論的なやつはいわば、推論・行動エンジンにすぎない。それ自体に人生の生き方だとか、目的はない。

でも、たまに感情的なやつが暴走する。その時は、頭が燃えさかって葛藤して焦っているが、思考だけは冷静。いや、思考が冷静というより、理論的なやつが発する言葉が冷静。思考は暴走の影響を受けるから、多少バイアスがかかってしまうが、理論的なやつが感情の暴走とは無関係であるが故に、理論的なやつの言葉だけは冷静で思考や行動にはバイアスがかかることがある。 理論的なやつだけはいつも冷静で、それ以外は暴走すると文字通り暴走する。

この感情と理論の二つのシステムが、最近の僕では独立して連携して僕を動かしている。なんだかコンピュータみたいで面白い。理論的なやつは、さっき言った通り自律的に目的も目標も作らなくて動かないから、そいつは人間っぽくない。多分、感情的なやつが僕の人間味の大部分を持っている。

一喜一憂しないことと謙虚であること、今日の期待値

人間完璧じゃなくて複雑やから、たまたま良い側面が出まくった日と、たまたま悪い側面が出まくる日が定期的にでてくる。成功しまくる日と、失敗しまくる日。恥ずかしかったとか、かっこよくあれたとか。

僕は今日、どちらかというと、恥ずかしかった日で自分の愚かさを再認識した日なのだけど(定期)、よくよく考えれば毎日のように愚かじゃないなんてありえない。ここでいう愚かは、焦って支離滅裂な説明をしちゃったり、自分の好きな話だから出しゃばって話しすぎたりとか、何か自分のポリシーに反することをしてしまった時。定期的にそういう悪い日はやってくる。定期的に愚かさを再認識する日が来る。反対に、定期的に良かった日、かっこよくあれたり、愚かじゃなかった日もある。めちゃ上手く行く日とめちゃ上手くいかない日。それでめちゃ調子乗ったりめちゃ落ち込んだり。 でも結局のところ、これってランダム性が高いが故の現象で、毎日のように愚かじゃないなんて、無理ゲーだと思った。

この世界、不確実性が高い世の中で、様々な状況に遭遇する。そのランダム性の高いシチュエーション一つ一つに、完璧に愚かじゃないように対応できるのは至難の業。全部が違うシチュエーション。それぞれ個性的なシチュエーション全てに対して、自分が愚かじゃないようにあるなんて無理だ。だから、たまたま自分が愚かじゃない、たまたまめちゃ愚かだった、その一つ一つに毎回毎回一喜一憂しているようじゃ、気が疲れてしょうがない。そして総合的な愚かさ、平均的な愚かさ、平均的な自分が見えなくなる。 たまたま自分が愚かになりやすい状況がその日だったのかもしれない。たまたま愚かになりにくいシチュエーションが多かったのかもしれない。総合的に見たら、悪かった日と良かった日の合間くらいなのではないか。

だから、めちゃ良かった日がスコア100で、めちゃ悪かった日がスコア50とすると、合間取って僕の総合的な良さスコアは75。今日の良さスコアの期待値は75くらい、と考えるようにしようかな。たまたま良かった日、悪かった日の極端な例で一喜一憂しているようじゃ、慢心したり不安になりすぎたりする。 長期的に見て、平均的な総合的なスコアを常に見て、気を落ちつせたい。難しいけどね。

沢山の貰い物を貰って生きているかも

最近よく思うのが、僕って沢山の貰い物を貰って生きているんだなという話。周りの人があってこその自分なのだと。

僕は千葉に住んでいて、都会にも行く機会があるから、どちらかというと都会人なのだろうけど、都会人だからといって僕が本質的に猿ではないということにはならない。僕は最近そう感じている。というのも、僕は沢山の貰い物をもらった上で生活が成り立っているのであって、それらがなければ今頃猿のようになっていたのだと思う。その貰い物というのは、身の回りにあるものだ。

意外と気づきにくいのだが、僕は十九歳になる頃にやっと気づいたのだ。実に遅すぎて恥ずかしいのだが。例えば、僕が今ブログを書くために使っているキーボードやモニター、コンピュータは誰が作ったのだろうか考えると、僕以外の誰かが作ったということがわかる。また、それぞれの周辺機器を作るために必要な技術は誰が作ったのだろうか、これもまた僕以外の誰かだ。そして、作る以外にも僕の手元に届くような世界を提供してくれてるのは誰だろうか、これも僕以外の誰かで配達ドライバーや小売店などなど。そのほかにも、周辺機器メーカーが存在したのは、その会社を作ることができた日本やアメリカなどの国があったおかげであり、なおかつ、それらの国が適切に政治を成しているからでもある。これも僕以外の誰かがやったもの。

そしてここまで考えて僕はふと思ったのが、もしも貰い物がなければ僕はどうなっていたのだろうか、ということだ。そしてわかったことが、僕は本質的にただの猿に近い可能性があること。
僕が毎日使っているスマホも他人が作ったものだし、僕が住んでる家も親が貸してくれてるものだし、僕が食べてるご飯も親からの貰い物だし、僕が学校で教育を受けられるのも貰い物。僕が使っているウォシュレット付きトイレも貰い物だし、僕が使ってる駅も貰い物で水道もガスも電気も貰い物。そしてここまでに挙げた貰い物を全て僕から剥奪してみると、残るものは何か。そこに残るのは恐らく、全く教養のない、トイレの使い方もわからない、歯の磨き方もわからない、体の洗い方もわからない、箸の使い方もわからない、本能と理性の違いがよくわからない、猿のようなものになっていたのではないだろうか。
つまり、本質的に僕は猿なのであって、貰い物があるからこそ人間になれる、と考えた。

そこで僕は、僕一人で何でもできると思うことをやめた。できる可能性があったとしても現実的に不可能だ。特に、本質的に僕は何でもできる人間であると考えるのをやめた。もはや猿に近い何かだ。
このように、僕は実は人間じゃないのではないかと思ったのが最近あったことで、僕は貰い物をもらいまくるこの社会で生きる上でコミュニケーションや協働が必要不可欠だと感じた。僕はもっと周りの人に感謝して生きていこうと思う。


余談だけど、似た話がアニメになっていたので共有しておこう。


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ブログ始めました

元々Ameba Blogをやっていたのだが、なんかよくわからないことになったので(?)はてなブログに移行します。まっさらな状態にもしたかったもので。 自分の普段思っていることをつらつら書いていく場所として使いたいと思います。日記的な何かです。

しずかなインターネットをブログ投稿サイトとして使おうと思ったのだけど、でもあそこはどちらかというと体裁良い記事だけ投稿しようと思って、体裁の悪い雑に書いた文章を投稿する場所としてここを使おうと思う。あくまで日記っていうていにすることで、体裁の悪い文章を正当化します。