髙木祐来のブログ

髙木祐来の日常が述べられていると思う。

自分の意見は常にエゴである可能性を持っている?

「死にたい」に対して「死んでほしくない」という人が、「それってお前のエゴだろ、私の気持ちをわかってもいないのに」と言われることもある。僕はこれがごもっともだと思う。というか、僕にもそういう時期があったし、実際ある程度エゴだと思っている。 かといって、「死んでほしくない」って言葉が仮にエゴだとしても、死んでほしくない人が思う「死にたい」もある意味エゴと捉えることができなくもない、なんて。

エゴに対しては大体、相反するエゴが存在すると思ってる。 世の中にはあらゆる意見があって、

  • 「自殺はすべきではない」
  • 「自殺はしてもいい」
  • 安楽死マシンは導入すべき」
  • 安楽死マシンは導入してはいけない」
  • 「たい焼きはみんな食べるべきだ」
  • 「たい焼きじゃなくてたこ焼きを食べるべきだ」

みたいに、ある意見があればそれの反対意見も容易に存在しうる。これら意見それぞれに、それぞれの人・関係者の都合・事情があり、その背景からこれら意見が浮上する。世界は広くて、多様性があって、本当に千差万別の都合・事情がある。それゆえ、意見と反対意見は、両者が互いに相手のいうことをエゴだと思う場合が多々ある。センシティブな話題ほど、そうなる場合がありえる。 ここから考えるに、僕が意見を言ったら、世界のどこかに都合の悪い、反対意見を持つ人がいるのではないだろうか。仮に自分の意見の反対意見を友達が言わなかったとしても、世界中の一人一人にインタビューすれば、高確率で反対意見を言う人が現れる可能性が高い。

したがって、

前提:「ある意見が存在する時、その反対意見が存在しうる」

なんて考えられる。もちろん、どんな意見にも反対意見が絶対あるとまでは言い切れないが、世界のどこかに反対する人がいる場合が可能性としてありえる、とはいえる。 この前提が成り立つとしたら、意見を述べると高確率で反対意見が存在しうる。どんな意見を言っても反対意見が世界のどこかに存在する可能性がある。

ゆえに、何にかしら意見を述べたら、それが世界の反対する誰かにとってはエゴに見える可能性がある、と考えることができる。 だから、僕が意見を言ったら、どこかに反対意見をいう人がいて、その人にとってはエゴとなってしまうかもしれない。どんな意見を言ったところで、世界中のどこかにそれをエゴだと思う人がいるのかもしれない。

よって、自分の発言が誰かにとってのエゴかもしれないから、僕は意見を述べたくなくなる。「それお前のエゴじゃん」と言われちゃ、そこでおしまいな場合が多いから。 難しいぜ。


P.S. かといって、この意見を言えなくなる呪いに対するアンサーも、仮説程度にある。「お前のエゴだろ」と言われないように説得し納得させる、自分の考えを広めるということ。どこかの誰かにエゴと言われる可能性があっても、その場にいる人が納得できたならば問題がない場合が多い。そこにいる人さえ納得させるつもりで意見を述べる、という方針。この考えで、エゴと言われることを恐れない身の構え方が作れる、のかもしれない。